『からくりサーカス』シェイクスピア引用文解説集

2013年秋の文学フリマにて無料配布いたしました「『からくりサーカス』シェイクスピア引用文解説集」をネット用にまとめ直しました。

はじめに

からくりサーカス』という漫画をご存知でしょうか?

 1997年から2006年に渡って「週間少年サンデー」に連載された藤田和日郎作の大人気少年漫画になります。

 その中に登場する、ギイ・クリストフ・レッシュという人物は戦闘中や会話中、または独り言で「シェイクスピア曰く…」から話だし、シェイクスピアの戯曲からセリフを引用するというなんともキザで知的なことをやっているのです。さて、イギリス文学に興味のある私はこれを読んでいて、これらの引用文は一体どこから来ているのだろうかと疑問が湧いてきました。そこで『からくりサーカス』の全巻を見返し、「シェイクスピア曰く…」で始まるセリフをリストアップし、全ての引用元を探し出すという作業を行うことにしたのです。

 作業を始めてびっくりしましたが、『からくりサーカス』に引用されるシェイクスピア劇のセリフはマイナーなところから取られている物が少なくありません。正直なところ、確信の持てていないセリフも数個残っております。もし、掲載の物よりも適している引用元がありましたらご教授いただければ幸いです。

 この冊子では『からくりサーカス』に取り上げられているセリフを解説しながら、シェイクスピアの原作を中心に紹介するよう心がけております。まだまだ勉強不足の上一人での作業だったため、間違いもあるかと存じますがどうぞお読みいただければ幸いです。

 

シェイクスピアの訳文は全て小田島雄志訳になります。

 

ページ数も小田島訳、白水uブックスのシェイクスピア全集の物を掲載いたしました。

1. 「この世は舞台なり―― 誰もがそこでは一役、演じなくてはならぬ」

1.

「この世は舞台なり――

誰もがそこでは一役、演じなくてはならぬ」(中略)

「生に倦んだバラードを唄う道化(アルルカン)」

7121‐122ページ & 41146‐147ページ)

 

I hold the world but as the world, Gratiano;
A stage where every man must play a part,
And mine a sad one.

「世間は世間、それだけのものだろうグラシアーノー、

つまり舞台だ、人はだれでも一役演じなければならぬ、

そしておれの役はふさぎの虫ってわけだ」

(『ヴェニスの商人1113ページ)

 

in Karakuri

 言わずとしれたギイ・クリストフ・レッシュ初登場時のセリフ。裸の美女二人をはべらせてシェイクスピアから突然引用するなど、キザでインテリぶった(褒めてます)ギイのキャラクターをよく表している。初登場時なので当たり前だが、記念すべき最初のシェイクスピア引用文。

 

in Shakespeare

 上のセリフは『ヴェニスの商人』の冒頭のセリフ。理由のわからない憂鬱にとりつかれている商人アントーニオが友人のグラシアーノーに愚痴るシーンだ。『ヴェニスの商人』といえばキリスト教の商人アントーニオとユダヤシャイロックの対立を描く戯曲。エリザベス朝の時代には勧善懲悪の喜劇として楽しまれていたものの、人種差別につながるセリフやシーンも多く最近ではシャイロックの悲劇として演出されることも多い。このセリフのような、「世界を舞台に例え、人間を役者に例える考え」はシェイクスピア劇の中では多く、ラテン語を使ってtheotrum mundi(世界劇場)とよばれている。ギリシャ時代の演劇から伝わる考え方で、エリザベス朝時代の人々には広く知られていた。

 上に載せた『ヴェニスの商人』のセリフ以外にも、『お気に召すまま』の「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずこれ役者にすぎぬ」や、『マクベス』の「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ 舞台の上で大げさにみえをきっても出場が終われば消えてしまう」など有名なセリフの中でこの世界劇場の考え方が見え隠れする。人は皆、自分という役を演じている。更に身分、年齢、職業に合わせてそれにふさわしい役割を演じさせられている。そんな人生観がシェイクスピア劇の中で表現されている。

 

 個人的にはアントーニオの友人でこの劇の全ての発端であるバッサーニオがダメ男過ぎて……(苦笑) アントーニオが不倶戴天の敵シャイロックから金を借り、事故で返せなくなったために裁判に発展していくのが大まかなあらすじなのだが、お金を借りた理由というのがこのダメ男バッサーニオの結婚資金にするため。バッサーニオは遊びすぎて金がなくなる度にアントーニオに借金をし、その金を返すために異国の金持ちの婦人と結婚して財産を得ようというのだ。しかも、その結婚資金をアントーニオから借りようという。借りようというバッサーニオもバッサーニオだが、貸す方も貸す方である。「ゲイなんじゃないか……?」と思ったそこの貴方、笑い事ではない。かなり昔からアントーニオが同性愛者なのではという議論は繰り返されている。

2. 「ムダに時を使うなと、時計怒らん」

2.

「ムダに時を使うなと、時計怒らん」

7139ページ)

 

The clock upbraids me with the waste of time

「時計が叱っているわ、時間をむだにするなって」

(『十二夜3188ページ)

 

in Karakuri

 1番のセリフに続く、初戦闘シーンでのセリフ。はべらせていた美女たちは実はギイを殺しにきたオートマータ。体中から機関銃を出し今にも襲いかかってきそうな人形たちを前に、ギイは落ち着いた様子で「僕の仕事を手伝え」と鳴海に依頼する。事情が何もわからない鳴海は「やなこった」と即答し、逃げ出そうとしてしまう。そんな鳴海の様子を見てギイは呆れたようにシェイクスピアを引用した。

 

in Shakespeare

 このセリフはシェイクスピアが書いた喜劇の中でも傑作と名高い『十二夜』からの引用である。『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』等、悲劇の印象が強く難しいと思われがちなシェイクスピアだが、実はコメディに分類される作品が13作品もある。現在のコントのような軽快でバカバカしい内容の物もあり、肩肘はらずに笑える作品が今も残っている。

 上のセリフはオリヴィアという令嬢が、男装している少女ヴァイオラに惚れ込んでしまい躍起になって口説いている時のセリフだ。時計が鳴った音を聞き、「もう行かなければ」とヴァイオラを焦らそうとするのだが、当のヴァイオラはどこ吹く風。ヴァイオラになんとか振り向いてほしいオリヴィアは、帰ろうとするヴァイオラをまた引き止め「私のことをどうお思い?」と聞きだそうとする。積極的なオリヴィアの姿勢が可愛くもあり、ちょっと怖くもある場面である。

 『十二夜』という戯曲のストーリーを説明するのは難しい。ヴァイオラは船で難破して双子の兄と離れ離れになり、男の子に変装して公爵オーシーノーに仕えることにする。そこでオーシーノーに密かな恋心を抱くのだが、彼はオリヴィアに夢中、そしてオリヴィアはオーシーノーからの使いで来たヴァイオラに一目惚れしてしまう。単なる三角関係といえばそうなのだが、シェイクスピア独特のセリフ回しや魅力的な脇役たち、全体に流れるどこかメランコリックなトーンが人気でシェイクスピア喜劇の中でも上演の機会は多い。

 特に見ものなのは、オリヴィアに仕える執事、マルヴォーリオを罠に嵌める「マルヴォーリオいじめ」と言われる脇筋。頑固で居丈高な物言いをするマルヴォーリオに反感を抱いた3人組が彼を騙して奇妙な行動を取らせ笑いものにするというストーリーだ。3人組に用意された偽手紙を読み騙されるのだが、その内容というのがヴァイオラからマルヴォーリオへのラブレター。曖昧にぼかされた内容にいいように踊らされていくシーンは役者の演技力が試される笑い所になる。先に紹介したあらすじと関係ないようだが、シェイクスピアの劇ではこのようなサブプロットが存在する物がほとんどである。本筋を辿りつつ賑やかな脇筋を楽しみ、ラストでは二つの筋が見事に合わさって完結する。

 

 もし興味を持っていただけたなら、1996年公開トレバー・ナン監督の映画を見ていただきたい。『英国王のスピーチ』や『レ・ミゼラブル』等に出演したヘレナ・ボナム=カーターがオリヴィアを演じている。多数の名優たちが共演する非常によい映画なのだが、残念ながらDVDは現在絶版。渋谷等の大きなTSUTAYAではレンタルできるようなので是非見てみてほしい。

3. 「どんな毒舌も馬鹿者には効果なし」

3.

「どんな毒舌も馬鹿者には効果なし」

107ページ)

 

a knavish speech sleeps in a
foolish ear.

「とほうもない悪口も阿呆の耳には入らぬものだ」

(『ハムレット43166ページ)

 

in Karakuri

 オートマータ破壊のため、旅を続けるギイ、鳴海、ルシール。柔らかい石を探すためローエンシュタイン大公国にやってきた3人は石を宿している可能性のあるエリ公女に近づいた。パレード中のエリ公女を見張る鳴海たちの前で、オートマータがエリの誘拐を謀る。ヘリコプターに乗り込んだオートマータとエリを追い、見事エリを取り返した鳴海だったが飛行中のヘリから飛び出して一言、「しまった!!空の上だった」離陸していることも忘れて飛び出した鳴海たちを救ったのはギイだった。このセリフはその時のギイが鳴海の馬鹿さに呆れて言放った言葉。良くも悪くも、回りの言葉を聞かずに行動が先立つ鳴海には耳の痛いセリフだろう。

 

In Shakespeare

 シェイクスピアの四大悲劇に数えられ、知名度でもトップクラスの悲劇『ハムレット』。父親を殺し、女王と王位を奪った叔父に復讐する王子ハムレットの物語だ。

 上のセリフはハムレットが狂ってしまった振りをしながら、ローゼンクランツとギルデンスターンと会話するシーンから引用されている。この2人はハムレットの旧知の友人であるが、憎き敵クローディアスからの指示でハムレットの狂気の原因を探るために遣わされたり、叔父と誤り大臣ポローニアスを殺してしまったハムレットを捕らえにきたりとクローディアスの言いなりになっている。そんな2人をハムレットは「国王の寵愛、恩賞、権力、なんでも吸いとるスポンジだ」と中傷するが、狂気の言葉としか思わないローゼンクランツは「おっしゃる意味がわかりません」と聞き流す。それに対してハムレットが口にするのが上のセリフである。

 『ハムレット』はシェイクスピア劇の中でも難解と言われながら、何度も何度も上演されている。特に見る物の印象に残るのは、ハムレットが自らに問いかける独白の数々だ。父親の死後、すぐに叔父との婚姻を結んだ母親を許すべきか許さざるべきか、叔父を殺すべきか黙って見過ごすべきか、殺すならどのタイミングでどうやって殺すべきか。王子ハムレットは戯曲の最初から最後まで悩み続け、その悩みの全てを語りつくそうとするかのごとく舞台の上で独白する。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」、「もろきもの、汝の名は女!」などの有名なセリフもこれらの独白の中で紡がれる。このハムレットの性格からロシアの小説家ツルゲーネフは「ハムレット型」と「ドンキホーテ型」という概念を生みだした。セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』の主人公のように思い立ったらすぐ行動、理想を追い求め、分別に欠く性格の人間を「ドンキホーテ型」と定めたのに対し、ハムレットのように中々行動に移さず、疑惑や思索にこもりがちな人物を「ハムレット型」と呼んだ。まさに世界文学史を代表する憂鬱屋がハムレットなのだ。

 

 個人的には悩んでばかりで、しかも思考の流れがわかりづらい『ハムレット』という戯曲は好きではなかったのだが、何度も鑑賞するうちにハムレットの心情の動きが少しづつ見えてきた。いや、見えてきたと思ったら、また見失って別の捉え方が浮かんできた。見れば見るほど謎が深まる戯曲『ハムレット』。何度でも、様々な劇場、演出、役者で見てもらいたい。

4. 「正直そうなカオをしていても」、 「手は何をしているかわからぬのだ」

4.

「正直そうなカオをしていても」、

「手は何をしているかわからぬのだ」

1094ページ)

 

All men's faces are true, whatsome'er their hands are.

「人間、だれでも顔だけは正直者だ、手が盗人であろうとな」

(『アントニーとクレオパトラ』2694ページ)

 

in Karakuri

 3番のセリフに続き、ローエンシュタイン大公国編でのセリフ。不死の力を得るためにやわらかい石を手に入れようとするギュンター候からエリを助け出すため、ギイとルシールは武装集団20人とオートマータ達で守られた館へと突入する。 数で押してくる敵をものともせず、あっという間に殲滅に成功したギイに壊れかけたオートマータが口にした「優男のくせに…オリンピアの恋人…おまえは…マリオネットがうまい…」という言葉にギイがエスプリをきかせて言った言葉がこちらのセリフ。戦闘を終えたオリンピアをバックに余裕の態度で返答するギイの姿が夜に映える。

 

in Shakespeare

 『アントニーとクレオパトラ』は10年に渡る戦争を描いたシェイクスピアの悲劇だ。そしてその戦争を引き起こしたのは、女の美しい顔であった。武将アントニーがクレオパトラという女の美貌に魅せられてローマを相手に取り戦ったといえば話は簡単なのだが、当時のローマの政治的背景などもあり、事はそうシンプルにもいかない。とはいえ、話の本筋はアントニーとクレオパトラの危険な愛、そしてそれを取り巻く戦争がメインとなっている。

 

 こちらのセリフはアントニーの腹心の部下イノバーバスとかねてからの敵であったポンペーの仲間ミーナスの会話中の一文だ。『アントニーとクレオパトラ』の特徴なのだが、敵同士であるはずの連中が戦争以外の場では宴会をしたり、踊りを踊ったり、談笑したりといったシーンが多くある。政治的駆け引きや休戦などの理由があるのだが、見ていると混乱することも少なくない。イノバーバスとミーナスも戦場でのお互いの奮闘ぶりを褒めながら、握手し盗人同士で手を握り合うことを茶化しながら上のセリフを口にする。最初は自分たちのことを指して、「正直そうな顔」と言っていたのだが、次のセリフでは、「だが美人となると顔まで正直者ではない」とクレオパトラの話へと移っていく。絶世の美女と呼ばれるクレオパトラに心を奪われ、無用な戦いを挑み勝てるはずの戦にまで敗北していくアントニーの今後を占うように、二人は美女へと入れ込んでいくアントニーのことを語る。このシーンのように先の展開を暗示するようなセリフを会話の中に散りばめるのもシェイクスピアがよく用いるテクニックの一つだ。

5. 自ら飛び込む方が良い、手をこまねき待つよりも…

5.

自ら飛び込む方が良い、手をこまねき待つよりも…

1449ページ)

 

It is more worthy to leap in ourselves,
Than tarry till they push us.

いたずらに座して待つよりも、

みずから飛び込むほうが男らしい。

(『ジュリアス・シーザー55179ページ)

 

in Karakuri

 オートマータ撲滅の旅は続き、飛行機で上海へと飛ぶ途中のこと。乗客に紛れ込んだオートマータたちにギイたちは襲われる。刃物で切ったり突いたりすれば自爆する人形たちに攻められるが、鳴海の拳法で辛くもオートマータたちを撃破した。しかし、壊れかけたオートマータは人間の血液を求め、乗客の子どもに襲いかかる。咄嗟に鳴海が腕に仕込んだ剣でオートマータを貫き、ギイがその身とオリンピアを挺して爆発の被害を最小限に抑えた。満身創痍のギイはそれでも膝をつくことなくシェイクスピアのセリフを口にする。

 

In Shakespeare

 世界史に残る大事件、シーザー暗殺を描いた『ジュリアス・シーザー』からの引用である。『ジュリアス・シーザー』という名ではあるが、ブルータスを主人公として見るのが一般的だろう。ラストシーン近く、シーザー暗殺後に反逆者として追われ、戦争を起こすも最愛の妻ポーシャや戦友キャシアスを失い、なす術のなくなったブルータスが自らの最期を覚悟した時に口にした言葉が上のセリフである。この直後ブルータスは戦友たちに別れを告げ、自ら命を絶つ。理想主義で、常に潔癖を守り、高潔を保ち続けたブルータスの亡骸を見て、袂を分かったアントニーも「これこそが人間であった」と賞賛する。

ジュリアス・シーザー』といえば有名なのはシーザーが最期にこぼした「おまえもか、ブルータス!」の言葉だろう。ちなみにこれはシェイクスピアの創作ではなく、ローマの歴史家スエトニウスが遺したものとされ上演当時のイギリスでは既に有名な言葉だったようだ。原文でも“Et tu, Brute?” ラテン語で書かれている。シェイクスピア劇のほとんどはなんらかの原作(材源と呼ばれる)を持っており、この『ジュリアス・シーザー』もプルタークの『英雄伝』をもとにしてある。筋書きのほとんどが『英雄伝』の内容と一致するのだ。この戯曲はシーザー暗殺の話だが、シーザーが殺されるのはちょうどストーリーの中頃。その後は、民衆を説得するブルータスとアントニーの演説シーン、さらに両者の戦争と話が進んでいく。是非、通しで最初から最後まで見てもらえたらと思う。

 

 シーザーの腹心であり、シーザーを敬愛していたブルータス。彼は共和制を守りたいという信念によりシーザー暗殺を決意した。では、シーザーは悪人だったのか。それは個人によって決めることであるが、私はそうも言い切れないと思っている。独善的で敵も多いものの、戦争に勝ち続け領土を増やすシーザーは民衆たちにとってまさに英雄であった。ブルータスにとってシーザーとはそれを理解した上でも殺さなければならない存在だったのだ。強い信念を持ち、勇気を奮い起こし剣を抜いた暗殺者を描いたこの戯曲が私は大好きである。独裁を食い止めるために起きたシーザー暗殺。しかし結果として、この事件をきっかけにローマが独裁に進んでいったという事も興味深い歴史の皮肉である。

6. 人からあまりにも丁寧に礼を言われると、 おかしな気持ちがするものだ。

6.

人からあまりにも丁寧に礼を言われると、

おかしな気持ちがするものだ。

1450ページ)

 

when a man thanks me heartily,
methinks I have given him a penny and he renders me
the beggarly thanks. 

「おれはだれかにこころからなるお礼を言われると、

こっちはただの一ペニーしかやらなかったのに

むこうは乞食みたいにペコペコお礼を言ってやがると思えてくる」

(『お気に召すまま』2562ページ)

 

in Karakuri

 先の5番のセリフの直後のページでのセリフである。傷だらけのギイを見て、助けた子どもが泣きじゃくりながらギイに飛びつく。その姿に困ったような顔を浮かべながら引用したのが上のセリフだ。

 

In Shakespeare

 シェイクスピア劇の中で最も歌の多い戯曲、それが『お気に召すまま』である。2番の『十二夜』に続く久々の喜劇だ。(ちなみに1番の『ヴェニスの商人』も暗い影はいろいろあるものの、一般的分類は喜劇である) 青年オーランドーと前公爵の娘ロザリンドはオーランドーが参加したレスリングの試合で初めて出会いすぐに恋に落ちる。だが、二人が再びあいまみえる前にオーランドーは兄に理由もなく疎まれ追放の身となる。ロザリンドも彼女の父から公爵位を簒奪した叔父に追放を命じられ、父を探す旅へと出る。オーランドーは従者アダムと、ロザリンドは従兄弟シーリアと道化タッチストーンと共に、別々に旅にでた彼らだったが、たどり着いたのは前公爵が住むアーデンの森であった。

 

 主人公二人の境遇は中々悲惨だが、アーデンの森にたどり着いてからの雰囲気は軽快でコミカルである。ウィットの効いたロザリンドのセリフなども理由の一つだが、なんといっても脇役たちの愉快さが喜劇の雰囲気を盛り上げている。中でも『お気に召すまま』の名脇役といえば皮肉屋でペシミスティックなジェークイズだ。そのジェークイズが仲間のアミアンに歌を歌ってくれと頼んでおきながら「人にお礼を言うおれじゃあないが言うとすればきみに言おう」とふてぶてしく言い放ち、言った言葉が上のセリフになる。一般的礼儀としてのお礼にまで文句をつけるキャラクターがジェークイズなのだ。なんにでも文句をつけなければ気がすまない彼の名言はこれだけではない。例えば、オーランドーと二人で森を歩けば「お付き合いいただいてありがとう。もっとも、実のところ、一人にしておいてもらったほうがさらにありがたかったが」とわざわざ嫌味を言う。しかし、ふさぎこむ彼の観察眼は他のキャラクターたちとも一線を画す物がある。1番で紹介した、「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずこれ役者にすぎぬ」で始まる長台詞も彼のセリフだが、人間をよく観察した興味深いセリフである。ジェークイズは人間の一生を赤ん坊、泣き虫小学生、恋する若者、軍人、裁判官、間抜けじじい、第二の赤ん坊の七つの幕に分けて説明する。年をとった人間のことをやくたたずで何もできないものと描写するのは、心苦しいものがあるが人の一生の解釈としてはかなり面白い。機会があれば是非全文を読んでいただきたい。

7. 「神よ、知り合い同士が手を繋ぎ合うのはなんと難しいことか」

7.

「神よ、知り合い同士が手を繋ぎ合うのはなんと難しいことか」

24154ページ)

 

O Lord, Lord! it is a hard matter for friends to
meet;

「ああ、神様! 友と友がめぐり会うのはなんてむつかしいことでしょう」

(『お気に召すまま』3291ページ)

 

in Karakuri

 6番のセリフから実に10巻分久しぶりのシェイクスピア引用文である。過去を知るために黒賀村を訪れた勝を追ってきたギイ。彼にとっては久しぶりの黒賀村で警戒した見張りの人形使いにあって口にしたのが上のセリフだ。

 

in Shakespeare

 6番と同じく、『お気に召すまま』からの引用文。逃げ延びた森で偶然にもロザリンドの恋の相手オーランドーを見つけたシーリアのセリフ。meetを「手を繋ぎ合う」と訳すのは多少無理があるのではないかとも思い、ほかに該当しそうなセリフも探したが、現状見つかっている中で最もふさわしそうなものはこちらになる。

 

 

8. 「心にありて美しきものは、優しき愛」

8.

「心にありて美しきものは、優しき愛」

2921ページ)

 

Shall hate be fairer lodged than gentle love?

美しい館にやさしい愛より憎悪が宿ってはいけないはず、

(『ソネット集』10番)

 

in Karakuri

 今までエレオノールに守られる存在だった勝が彼女に「もうぼくをまもってくれなくていいんだよ」と宣言する。本当に守られるべき存在はエレオノールであることを彼が理解したからだ。しかし、エレオノールはそんな勝の申し出の理由が分からない。これからどうすればよいかと戸惑うエレオノールにギイは「恋でもしてみたまえ」と声をかける。シェイクスピアの詩の一部を引用しながら。今更ではあるが実にキザである。

 

inShakespeare

 こちらの文は今まで紹介したものとはおそらく毛色が違う。戯曲ではなく詩からの引用なのだ。『ソネット集』とはシェイクスピアの最も有名な詩集で、全部で154編の詩が収録されている。基本的には「君」と呼びかけられる「美少年」への賛辞を歌った詩が多い。しかし、中盤以降になってくると「黒い貴婦人(Dark Lady)」と呼ばれる女性が登場し、「詩人」「美少年」「黒い貴婦人」の三者による三角関係が浮かび上がり読者の想像を掻き立てる。『ソネット集』には「このソネット集のただ一人の生みの親であるW.H.氏に、(中略)本書をこの世に送る」と献呈辞が添えられており、このW.Hとは誰かが今でも謎になっている。シェイクスピアと親しかった貴族か、劇団の少年俳優か。詩に書かれた「美少年」はこのW.H.なのか。いずれにせよ、極めてきわどく同性愛ともとれる愛情が歌いこまれているのがこの『ソネット集』だ。

 戯曲以上に馴染みがないだろうが、上演を待たずして触れられるという意味では詩のほうがとっつきやすくはあるだろう。特に「あなたをなにかにたとえるとしたら夏の一日でしょうか?」で始まる18番のソネットは代表的な物として一読する価値がある。夏の自然描写を交えながら「美少年」の美しさを歌っている。生き物が持つ美は全て時と共に色あせていくものだが、それを永遠に繋ぎ留める効果を詩に求めているのだ。こちらのソネット18番は映画『恋におちたシェイクスピア』や漫画『7人のシェイクスピア』でも効果的に引用されているのでチェックしていただければと思う。

 ちなみに、ソネットとはそもそもイタリアで生まれた詩の形式であり、14行で書くことや韻の踏み方等細かいルールが定まっている。ちょうど日本の俳句で字数が定まっており、季語をいれなければならないのと同様である。

 

 

 このページでは『ソネット集』を上のセリフの引用元として紹介したが、2004年の映画『ヴェニスの商人』のキャッチコピーとして「心に宿して美しいのは、憎しみよりやさしい愛」という文が載っている。これの元ネタはわからなかったが、今回紹介したソネットだと私は考えている。藤田先生はひょっとしたら、映画のほうから上のセリフを引用したのかもしれない。

9. 「罪無き者も稲妻に打たれること有り」

9.

「罪無き者も稲妻に打たれること有り」

3681ページ)

 

Some innocents 'scape not the thunderbolt. 

「罪のないものも雷にうたれることがある」

(『アントニーとクレオパトラ』2582ページ)

 

in Karakuri

 世界中にゾナハ病の病原菌がばらまかれ、最終章の幕がついに上がった。鳴海とギイは阿紫花、ジョージ、ミンシア、法然とともにゾナハ病病原体を退ける機械がある研究施設へと向かう。研究施設は既にオートマータたちに囲まれ、ギイたちは機械と子どもたちを助けるため、オリンピアで空を駆け施設へと急行する……のだが、地上にも空にも大量のオートマータがひしめいている中、なんとギイは女優のミンシアをのんきに口説こうとしていた……。鳴海たちからの非難を浴びながらギイは自分は悪くないかのように上のセリフを口にする。

 

in Shakespeare

 

 4番と同じく『アントニーとクレオパトラ』からのセリフだ。愛するアントニーが別の女と結婚したという報を受け激昂したクレオパトラは報告した使者を罵倒し、殴り倒す。何の罪もない使者に好き放題暴力を振るい挙げ句の果てに放った言葉が上のセリフである。クレオパトラの激しい性格がよく出ている。報告する使者もクレオパトラにどんなに怒られても嘘をつかず報告するところや、再登場時にはクレオパトラに怯えて中々登場できないところなど、なんとなく可愛い性格である。

10. 「楽しさのない処にはなんの得もない」

10.

「楽しさのない処にはなんの得もない」

4187ページ & 42145ページ)

 

No profit grows where is no pleasure ta'en:

「楽しんでやらなきゃなにごとも身につきはしません」

(『じゃじゃ馬ならし1129ページ)

 

in Karakuri

 いよいよ最終決戦直前、世界中に蔓延するゾナハ病を止めるには宇宙ステーションに飛んだ黒幕に直接会いにいくしかない。スペースシャトルを運び、宇宙空間に鳴海を送り込もうとする人間の作戦をオートマータに知らせようとする者たちがいた。三牛親子はもうすでにオートマータに脅され、敵のスパイとして動いていたのだ。そんな三牛親子のもとにやってきたギイは事も無げに「君達が敵のスパイだっていう話さ」と言い切る。敵に情報を渡す三牛親子を見届け「観客のいないサーカスは楽しいかい?」と聞いたところで、上のセリフを言い捨てギイは親子の部屋を去っていく。

 

inShakespeare

 緊張が張り詰めていく漫画とはうらはらに、セリフの引用元はなんとも緊張感のない喜劇の緊張感のないシーンからきている。『じゃじゃ馬ならし』という劇の最初のシーンで、ルーセンショーという若者とその従者トラーニオはパデュアの町についたばかりでこれからの生活に思いを馳せる。学問を身につけたいと語るルーセンショーにトラーニオはあまりストイックに行きすぎず、好きなものを勉強するのが一番だと上のセリフを交えながら語る。

じゃじゃ馬ならし』は少し変わった始まり方をすることで知られた作品である。スライという酔っ払いが道端で眠っていると、領主がやってきてある悪戯を考えつく。スライを屋敷に連れて帰り、領主であると信じ込ませようというのだ。まんまと引っかかったスライのために劇中劇が始まる。そうして始まった劇中劇が『じゃじゃ馬ならし』の本筋であり、先に紹介したルーセンショーたち登場のシーンという訳だ。ちなみに劇中劇が始まった後、何回かはスライが登場するのだが、最終的には一切出てこなくなり、スライがその後どうなったかは誰にもわからずに終わる。 そんな訳なので、スライの登場シーンはカットされてしまう演出も少なくないようだ。

じゃじゃ馬ならし』はもう一つ、男尊女卑の作品であると批判を受けることが多いことでも有名な作品である。内容をかいつまんで説明すると、ある乱暴者で有名な女性キャタリーナを持参金目当てで結婚しようとするペトルーチオが更生させるという話なのだ。キャタリーナも本当に乱暴な娘として描かれるのだが、それを矯正しようとするペトルーチオの方法もものすごい。食事はろくに食べさせない、夜は眠らせない、着るものはキャタリーナの好まない物ばかりと、彼女をいじめ抜くのだ。最後にはキャタリーナは貞淑で理想的な妻となりめでたしめでたしとなるのだが、現代ではうまく演出しないと女性差別の槍玉にあげられてしまうだろう。

 

 映画の中でも名画としてあげられるのは、1967フランコ・ゼッフィレリ監督作品の『じゃじゃ馬ならし』がある。実の夫婦でもあった(離婚もしているが)リチャード・バートンエリザベス・テイラーがそれぞれぺトルーチオとキャタリーナを演じている。いじめにも近いキャタリーナの教育の裏にぺトルーチオの愛が確かにあることを感じさせる演技が心憎い。

11. 「結婚は一時の気まぐれ」

11.

「結婚は一時の気まぐれ」

41151ページ)

 

a poor
humour of mine, sir, to take that that no man else
will:

「もらい手のない娘の手をとるなんてね、

あんた、おれのしようのない気まぐれだよ」

(『お気に召すまま』54163ページ)

 

in Karakuri

 自らの死期を悟り、最後の決戦へと臨むギイ。ふと脳裏に浮かんだのはどこかの村で挙げられる結婚式の様子だった。「結婚は一時の気まぐれ」と片付け、「僕には無縁なもの」と無関心だったが、最後の最後になってふと思い出す光景。自分の果たすべき役割を感じながら、ギイの最後の独り舞台が始まった。

 

in Shakespeare

 67に引き続き、『お気に召すまま』からの引用だと思われる。森で出会った田舎の娘オードリーと恋に落ちたタッチストーンは彼女と結婚をする。結婚の後、新妻をちゃかすようにして公爵に話したのが上のセリフだ。

 結婚に関してシェイクスピアがあまりイメージを持っていなかったのではないかという説は強い。彼自身若い時に年上の妻をもつことになり、しかもその夫婦仲は良好とは言い難かったようだ。彼の遺書の中で妻への遺産として「2番目にいいベッド」しか遺さなかったことから、夫婦仲が冷え込んでいる証拠とすることもある。

 

 結婚に関する否定的なセリフで有名なのは、この『お気に召すまま』から「男は恋をささやくときは四月だけど結婚すれば十二月」や『終わりよければすべてよし』から「若くて結婚、人生の欠損」などが挙げられる。とはいえ、喜劇のほとんどが結婚の幸せなシーンで終わるのだから、否定的なイメージばかりであったとも言い切れないが。

終わりに…

 今回この作業をしていて非常に助けになった本を一冊紹介いたします。

シェイクスピア傑作警句集』 シェイクスピア研究会 編著 山海堂

残念ながら現在は絶版になっており、中古での入手しかできないが本冊子掲載の1・2・3・5・6・7・10のセリフたちは全てこの本の中で発見できました。

 

 

 もしこのページをお読みいただき、シェイクスピアの世界に少しでも興味をお持ちいただければ無上の喜びに存じます。